運命線なんて描き足して

あなたと私がわかりあえないまま、それでも共に生きるために、言葉はあると思います。

セクシーの定義

「みんなを愛したい」と涙が出そうなくらい思いました。じっと空を見ていると、だんだん空が変ってゆくのです。だんだん青味がかってゆくのです。ただ、溜息ばかりで、裸になってしまいたくなりました。それから、いまほど木の葉や草が透明に、美しく見えたこともありません。そっと草に、さわってみました。

美しく生きたいと思います。(女生徒/太宰治)


 2021.07.11

 コンサートの幕が降りた。あたりには、まだふわふわとした夢の残り香が漂っている。ついさっきまでうちわを持った指先は、ジーンと痺れたように熱を帯びていた。まるで古今東西の宝石を持ち寄っては緻密に丁寧に拵えられた衣装、十字架を握りしめるように浴びていた好きな人越しのスポットライト、そしてコンサートでしか味わうことのできないアイドルが動く実像の影。この薄いまぶたには、胸を強く打たれるような鮮明なトキメキの記憶が、決して忘れまいとするようにくっきりと染みついていた。出口に流れていく人影をぼんやり眺めていると、あたたかい春の嵐があっという間に過ぎ去ったような甘い充実感と、もうあの空間に戻れはしない隙間風のような寂しさがスッと胸を掠めていく。コンサートの終わりは、いつもそうだ。繊細でキラキラした貝殻みたいな断片的な思い出を、心臓の奥底に存在する特別な小棚にそっとしまっておきたいような、いつの日にかまた取り出してはうっとりと眺めてみたいような、優しさで満ちた甘い感情が波のように押し寄せてくる。


 さて。


 SZ10THで、ずっと焼き付いているシーンがあった。それは「いつかなれるかなあ、Sexy Zoneみたいに」という問いに「きっとなれるさ、『君らしく』いればね」という答を出す場面だ。まるで晴れ渡る透き通った青空のように、気持ちがいいほどのSZらしさを感じた瞬間。それは、雑誌、ラジオ、ブログ、様々な媒体から飛び越えるように何度も何度も彼らから貰った言葉だったし、私はそのたびに頭が下がる思いがしていた。自分らしくいること。ありのままの自分を愛すること。それを文字に起こすのは簡単だけど、一体どれだけの人が口に出して、言うことができるんだろう。誰かにとっては救いになるし、誰かにとっては呪いになる。ちょっとでも用法・容量を間違えたら劇薬になる密度の高い言葉を、誰かに正しく伝えること、想像してみるだけでも難しいなぁと思う。

 私たちには、ただ生活しているだけでも理不尽なことがたくさんあって、拳を握り締めたくなる胸が軋むような悔しさも、常に清く正しくいることの難しさも知っている。そして、心の柔らかいところにある信念や信条を他人の強烈な悪意に傷つけられたときに、真っ向から立ち向かわずに満面の笑みを浮かべることがどんなに楽な処世術かも知っている。そのたびに、しょうがないよね  なんて言いきかせて慰めたり、最悪な自己嫌悪に陥っては全部がめちゃくちゃになってほしいなんてありもしない夢を願う。「君らしく」に程遠い醜い瞬間は、実際の日常に何度もやってくる。それでも。それでも私たちは、きっと”愛”を信じているからこそ、悪意が悔しいんだろう。“正しさ“がどれほど尊いものか知っているからこそ、鼻で笑われれたときに腹が立つんだろう。私たちは、煌めきの美しさを追いかけずにはいられない。

 最後の挨拶で、「自分の本心がそれなんだから」とまっすぐな瞳で前を向いた勝利くんを覚えている。「本当のことを言えば…」と吐露しながら「ここでも5人で立ってる」と明るく喋った風磨くんを覚えている。「苦しいことがあっても、楽しいことを見つけて積み重ねていこう」と笑みを浮かべてた聡くんを覚えている。彼らのいるステージは、そこだけ陽だまりのような虹色の甘い光で包まれている一切穢れのない空間と化していて、私はその静けさに無意識に息を潜めていた。そこにあるのは10周年に対する過剰包装された花束ではなく、己の選択を「信じたい」という、誠実で健やかで能動的な意志だったことが、なんだかとてつもなく嬉しかった。

 あの日私たちが掲げたのは、祈りという名の薔薇だ。傍から見れば、アイドルというのは、綺麗事の讃美歌を歌い上げる身綺麗に着飾ったお人形たちに見えるのかもしれない。けれども、誰かがそうやってレッテルを貼った綺麗事こそ、私たちが信じたい光なんだろうな。私たちの日常には理不尽なことがたくさんあって、「もう嫌だー!」と思いっきり投げたしたくなるときもあるけれど、それでも、ありのままの姿を晒け出しながら意志の声を紡いでいく、そうやって進んでいくあなたたちの立ち姿がどれほど美しいのか、私はこの目で見てしまった。誠実で真面目で全力で、自分たちの選択を信じて進み続けた先の笑顔がどれほど心を震わせるのか、私はこの肌で感じてしまった。ずるい。羨望の雷が身を貫く。

 生きている限り絶望や苦痛なんて何度もやってくるからこそ、私たちは凛として生きる強さに何度も憧れる。きっと終わらない夜がやってきても、目に見えない愛を信じながら、走って、もがいて、また走って、そうやって突き進んだ先に溢れ出ていった煌めきのこと、「セクシー」って呼ぶんだろう。この世界には愛があると信じたい、そんな意志の薔薇が咲く限り、私たちは強く、セクシーに生きていくことができるのかもしれない。そんなことを思いながら、私は薔薇を向けられたSexyZoneの5人に、一瞬の世界平和を見ていた。


 ところで、最後の挨拶で健人くんが口にしたのは、「永遠に愛します」という何も飾りっ気のない、シンプルでどストレートな言葉だったけど、それは私の心の奥にある静謐な湖にポタリ落ちては、過去の挨拶をぶわぁと甦らせていった。奇跡を永遠に起こせるように、SexyLoversにはいつまでも元気でいてほしい…じゃなきゃ愛せないと思うので…。言葉を紡ごうとする健人くんは、いつも薄暗いどんよりとした雲間からパッと一筋の光が差し込んでいくような、静かで穏やかな神聖さを讃えていて、まるでステージの神様が彼の真上でゆっくりと微笑んでる気がして愛おしかった。

 きっと健人くんの言う“永遠“は、強い祈りだ。永遠なんてどこにもない。一度動き出した歯車は、いつかどこかで歩みを止める。けれども、永遠の愛を願い続け、彗星が真っ暗な宇宙を走り抜けるようにステージを駆けていく健人くんは生命の輝きが溢れんばかりにこぼれていて、銀河一に最高にセクシーだった。健人くんの一挙一動はどこを切り取っても薄いベールを纏ったみたいに艶やかに光輝いて見えて、私はそれが強い祈りに対するステージの神様の返答なのだと、なぜか直感的にそう確信した。
 


 熱に浮かされたようにぼうっとしたままアリーナから踏み出すと、頭の中に浮かんだのは太宰治の一節だった。

「みんなを愛したい」と涙が出そうなくらい思いました。じっと空を見ていると、だんだん空が変ってゆくのです。だんだん青味がかってゆくのです。ただ、溜息ばかりで、裸になってしまいたくなりました。それから、いまほど木の葉や草が透明に、美しく見えたこともありません。そっと草に、さわってみました。

美しく生きたいと思います。


 残念ながら「みんなを愛したい」博愛までは及ばないけれど、確かに私はあの時、Sexy Zoneが、あの5人がとてつもなく愛おしかった。この時間がずっと続いてほしいと戻らない時間を奥歯で噛み締めていた。帰り道にふわりと包みこんでいく空気は、むわりと纏わりつくじめじめとした湿度を帯びていて、コンクリートからは雨上がりの匂いが立ち込めている。ここ数日は、まるで雲の上で天使たちが爛漫に遊んでいるんじゃないかってくらい大雨が降っていたけれど、いつのまにか止んでいたらしい。真っ暗な夜空には、すっきりとした爽やかな薫りが染みついていて、ただただ、身を任せたくなるくらい心地よかった。目の前の世界はいつもと変わらない風景だけど、優しい風が通り抜けたように、ほんの少しだけ綺麗に見える。肌が、脳が、感覚が、細胞が、目の前に広がった風景を記憶ごと詰め込もうとするけれど、書けば書くほど朧げになっていく。

 でも、それでよかった。“Sexy Zoneが放つきらめきに胸を焦がされた後、私が見たこの世界は、ほんの少し美しかった“ 。それだけで、いい。

 目の前の景色に両手でスッと襟を正す。耳をすませば、何万回目かの朝にむけた、はじまりの汽笛が鳴っていた。